「初めてですね、私の名前、呼んでくれたの」
「……悪いか」
「……いえ、うれしいです」
空乃はそう言って、赤面した。
*
俺はずっと、父親に嫌われているんだと思っていた。
俺は、転勤ばかりする父親に反抗して、どんどん荒れた。
不良になって、ケンカして、リンチじみたことして、暴力振るった。
こんな俺を、父親は見て見ぬフリをしていた。
だから俺はいらない子なのだと。
きっと必要とされていないのだと。
ずっとずっとずっとずっとずっとずっと、
そう思っていた。
だから。
俺は心から嬉しく思った。
父親が、俺の事をキライじゃなかったと知ったその日。
それは俺が入院した次の日だった。
父親が血相変えてやってきて、俺の頬を思いっきり叩きやがった。
「いってぇ……何すんだよ!」
きっと、腹を立てて、怒って、俺は捨てられる。
そう思って、父親を睨んだ。
すると、親父は、怒って叫んだ。
「何が"いってぇ"だ!!無茶をするな!馬鹿息子!!!」
それは、なんだか愛情のようなものを感じさせる、乱暴だが少し心に響いた声だった。
"何言ってんだこの人。"
そう思った。
それは、かまえてた言葉と随分違う事を言ったから。
だから俺はかなり動揺して、親父の顔を凝視した。
すると親父は安心したような顔になって、何かを堪えたように苦そうな顔をして、こう言った。
「元気そうで良かった」、と。
「親父……縁切るんじゃねえの?」
俺がそう言うと、父親は「何を寝ぼけた事言ってるんだ」と呆れたように言った。
親父って、俺の事キライなんだと思っていた。
だからてっきり縁切られるのかと思っていた。
でもそうではなかった。
どうやら父親は、会社を休んでまで飛んできてくれたらしい。
俺の事を、心配してくれたのだ。
親父が俺の事を嫌いなんじゃないかっていう事。
それは俺の勝手な思い込みに過ぎなかった。
じゃなきゃ、後ろ向いて涙を隠そうとする親父の姿なんて、見れるわけがない。
「生きてて、本当に、良かった……」
後ろを向いていても分かる。
肩がわずかに上下している。
「親父……ごめん」
俺は親父に謝った。
それは色々な意を込めて。
勝手な事して迷惑かけた。
病院に入院したせいで、会社を休ませてしまった。
心配をさせてしまった。
俺は、初めて自分の親に、心から感謝した。
*
「差し入れです。」
そう言って彼女は、俺に赤い赤いりんごを渡した。
「無農薬です。おいしいですよ」
そういうと、彼女はりんごの皮を病室で剥き始めた。
慣れた手つきで行う行為は、それだけで華麗な姿を思わせた。
うん、俺、どうしっちゃったんだろうな。
「じゃなくてっ!」
俺は、咄嗟に自分のペースを取り戻し、冷静になって彼女に言う。
「あんた、何でまたここに来てる訳?関係ねぇよな?昨日言ったよな?あ"ぁ"?!」
彼女は済ました顔で、一旦剥くのをやめてから、俺の目をみてハッキリとこう言った。
「貴方は確かに、私に言いました。ですが私は、それを承諾した覚えはありません」
そして、言い終えると、彼女はまたりんごの皮を剥き始めた。
あっという間に剥き終わると、りんごを切り分け、お皿に盛った。
「はいどうぞ」
にっこりと、笑顔で渡された。
俺はしぶしぶ受け取ると、そのりんごをフォークで刺して、口に入れた。
「……甘い」
「それは良かったです」
彼女はそういって、ベットに手を置いて俺の目線に合わせるように、その場にしゃがみ込んだ。
俺は、目が合って、どうしたらいいのかわからなくなった。
だから空を見た。窓から見える、黒く濁った空を見た。
「雨……今日も降ってるな」
「はい」
彼女は冷淡に答える。
「……俺、ケンカ負けたんだよな」
「はい」
それがまた、気軽にこんな事話せる理由なのかもしれない。
「約束どおり、俺はいじめられるのか?」
「わかりません。でもその可能性は低いです」
彼女目力が増加した気がした。
「神様は貴方の行いを見ています。貴方は負けました。そして、それだけの大怪我を負いました。
だからもういいじゃないですか。開放されてもいいじゃないですか。ケンカとか、いじめとか、もういいんですよ。
貴方はもう、今までしてきただけの罰を受けました。神様も、きっと許してくれていますよ」
初めて彼女のそんな長い言葉を聞いて、俺は少しだけ驚いた。
言っていることは、やっぱり神様に関係させてるけど、でも今はそれでもいいかなって思った。
彼女の目が、違う。
いつもと、違う。
まるで今まで抜けていた魂が、宿ったように明るくなる。
イキイキとする。
これは何だ?彼女の中の何が穴を空けているんだ?
彼女の心を喰う虫は一体何?
「あんたも俺になんか言いたいことあったらいえよ」
「……」
黙り込んでしまった。
「ごめん、こんな弱い俺なんかじゃ、頼りねぇな」
あまりいい気はしなかったが、それは事実。
だから、彼女が不満だとしても、俺はなんも言う権利なんかない。
すると彼女は首を横に振った。
「ありがとうございます」
彼女の目から、また魂が抜けた。
見てらんない。
何だ?何がだ?彼女の背負うもの、それは何?
何かある。絶対に何かあるはず。
それを探るべきじゃないとわかっているのに、探りたくなる。
彼女の痛みを、分かってやりたい。
救ってやりたい。
「……ムリすんなよ、空乃」
俺は、彼女の目をみてそういった。
すると彼女は、驚いたような顔で、一瞬固まった。
何か俺、マズイ事でも言ったか?―……あ。
そうか。名前。彼女の名前を、俺は初めて口にした。
意識しないで、勝手に言ってた。
……彼女は、怒っただろうか。
そんな風に考えていると、彼女は口を開いて喋り出した。
「初めてですね、私の名前、呼んでくれたの」
「……悪いか」
「……いえ、うれしいです」
空乃はそう言って、赤面した。
「翔堵くん」
「え?」
突然、名前を呼ばれたので驚いて、空乃の顔を見ると、嬉しそうに微笑んで、首を少しかしげる様にして言った。
「神様に感謝しなくてはいけませんね」
また、だ。
また神様。
「なあ、もう神様はいいじゃん。なんでそんな神様神様って……」
神様の話をしているときだけ、空乃はイキイキとしている。
だから、そんな神様に少し、俺は嫉妬した。
あれ、おかしい。
俺……なんで、嫉妬なんか。
「神様は私にとって……」
空乃はそこまで言って、急に俯いた。
「やっぱいいです」
その声は震えていて、泣いている様に思えた。
泣くなよ、なんで、なんで泣くんだよ。
何がそんなに、あんたを苦しめるんだよ。
空乃………。
「―……え?翔…堵…くん……?」
気がついたら、俺は、空乃を抱きしめていた。
こんなカッコ悪い姿のままで、後から思うと死ぬほど恥ずかしい。
「ご、ごめんっ……!」
俺は慌ててまわしていた腕を離し、少し距離をとった。
といっても、まだ俺はベッドから離れられずにいるから、ほんの少しだけだけど。
空乃は、やっぱり怒らずに、ただ俺を、俺の目を、真っ直ぐに見続ける。
目を逸らすことを許さない、空乃の綺麗な瞳の奥に、何かがあるのだと、俺は思った。
「空―……」
いいかけて、俺は口を閉ざす。
空乃は何かいいたげで、じっと俺を見る。
そして、空乃は俺に言った。
「聞いてくれますか?私の、私の過去を」
そういう彼女の顔は、ひどく悲しそうで、目から溢れる涙を、俺は指で救いながら言った。
「ああ、聞く」
空乃はゆっくりと、語り始めた。
ぽつ、ぽつりと。