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最後まで名前を名乗らなかったその少女を
今でも鮮明に覚えているのは
それが初めて自分の心を許せた相手だったから―。

「なあ……俺、もうわかんねーよ。今にでもあんたを憎みそうで怖ぇよ……」

まだ完治しない自分の体を、冷え切った空乃の体が抱きしめた。

「どうぞ憎んでください。私は何も、傷ついたりしませんから……だから。」

―安心して、私を憎んでください。



彼女はそう言って、涙を流した。

朝、目を覚ますと、白い病室に寝ている事が、たまらなく我慢できなくなる時がある。
でも。
ここを出たって今の自分には何もでいないから。
ちゃんと傷が癒えるまで、ここにいるつもりだ。


―全ては口実。



「そろそろリハビリ始めますよ~」

いつもの声が聞こえ、俺はベッドから重い腰を上げる。
松葉杖をつき、骨折で鈍った足のリハビリをする。

「あっ」

病室の扉に差し掛かったとき、見慣れた顔がそこにはあった。

「空乃」

彼女は可愛らしい笑みを浮かべて、俺を見上げた。

「おはようございます、翔紀くん。」

俺は軽く会釈しただけで、その場を逃げるようにしてリハビリへと向かった。

「頑張ってくださいね」

遠くで聞こえた空乃の声に、俺はいつもの100倍元気が出るのだった。

―不思議なものだ。

最初は鬱陶しかったはずの彼女を、今は必要だと感じている。
ここにいるのも全ては空乃に会いたいから。
そう気づいたのは最近のこと。
俺は空乃に惹かれてる。
もしも退院してしまえば、もうあの学校に戻る気はないし、そもそもケンカしたんだ。
絶対退学に決まってる。
そうなればもう空乃と会う口実はなくなってしまう。

―初めて気づいた。

口実がなければ、こうやって一緒にいる勇気さえ、俺には持ち備えていない。
弱くて臆病。本当は怖い。隠すための暴力。最低な男。

こんなデメリットだらけの男よりも、もっといい奴が空乃にはいるはずだ。
もしかしたら既に彼氏がいるのかもしれない。

「こら!リハビリに集中しなさい!何かイヤラシイ事でも考えてたの?顔がにやけてるわよ」

看護士にパコンッ、と、頭をカルテでたたかれる。

「いでっ……何もねーよ」

看護士ははーっと溜息をつくと、「あのね」と語り始めた。

「目上の人には敬語を使いなさい!言っとくけど、これ社会一般の常識!分かった?」

まるで口うるさい親だ。
だけどそれが、たまにうれしい。

「分かりましたよ、おばさん」

「おばっ……!」

俺はリハビリを再開する。

「まだ25じゃい!!!」

もうその喋り方がNGなんだよ。
「じゃい」って、年寄りかっての。
てか今時年寄りでもそんなこと言わねーし。

俺は心の中でそっと呟いた。

*
病室に戻ると、そこには空乃が待っていた。

「リハビリお疲れ様です」

はいどうぞ、と言われて渡されたタオルを、感謝の言葉もかけずに受け取った。

「空乃、あのさあ……」

――毎日毎日こんな何もねぇようなとこ来てつまんねぇとか思わねえわけ?

聞こうとして、俺はやめた。

「今日もいい天気ですね」

そう言った彼女の顔が、とても和やかで、この世は全て平和なんじゃないかって錯覚したからだ。
実際、そんなことはない。
現に俺は誰かさんと喧嘩して入院しているんだし。

ま、そのおかげで、こんなにも長く空乃といれるんだけどな。


―って俺、今何で嬉しく……!!


「あ!そうだ!!翔紀くん、ちょっと屋上に行ってみませんか?」

「あっ、ああ……」

覗き込まれた。目があって、すぐに逸らす。
ちょっと最近おかしい。
俺マジで空乃を直視できなくなってる。


空乃に連れて来られた屋上には、他に数人の患者と思われる人々がいた。
車椅子にのっている年寄り、ちっさい子ども、俺くらいの年齢の奴、などなど。
子どもなんてはしゃぎ回ってめっちゃ元気そうにみえるけど、たぶん病気なんだろうな。

「見てください!」

と、突然空乃に言われ、指した先を俺は見る。

「―街……」

「すごいですね……私たちの住む街全てが見下ろせます」

「……」

真昼間の太陽に照り付けられた俺は、きっとその太陽の光に耐え切れなくて、俯いたんだ。
じゃなきゃ、この俺が、空乃なんていう女見て熱くなって恥ずかしくなって俯くわけがない!

「どうしたんですか?すごくなかったんですか?」

「ん、いや、すごかった」

なんて適当な事言ってはぐらかす。
―見栄張ってるだけ。俺は、空乃見てると、調子が狂うんだ。

俺は気付いてる。認めたくないだけ。

――好きって事を。


*


病室に戻って、また真っ白な部屋に俺と空乃だけになった。



「そういえば、」


口を開いた空乃を、俺は静かに見た。


「何だ?」


聞くと、彼女は少し言いづらそうに、多分俺を気遣いながらこう言った。


「翔紀くんのお友達とか、ここにはこないんですか?」


―友達、か。

いるはずがない。
こんな俺に、友達なんているはずがないんだ。

空乃はきっと、疑問に思ったのだろう。


この病室には、空乃以外の奴がきたことがない。
だから、花も、果物も、全部空乃が置いてったもので、空乃が知らぬ間にどうこう、ということがないのだ。
空乃は、変化のない病室に、疑問を持ったんだろう。



俺は、適当にはぐらかした。

空乃もまた、深くは追求してこなかった。




それから何分かたって、空乃は椅子から立ち上がった。

「では、私はそろそろ行きますね」

「どこへ?」

「え?」


しまった、と思ったときには手遅れだった。

どこへ、なんて聞いて、俺はどうするつもりなんだよ。


「お墓参りです。」

淡々と告げる空乃に、俺はちょっと申し訳ない気持ちになった。

「ごめん」

「あやまることじゃないですよ」

微笑んで言う空乃を見て、ちょっと気になって聞いてみる。

「それって、誰のお墓参り?」

空乃の笑顔が、消える。

―言ってから後悔した。
俺ってつくづくダメな奴だと。
傷つくのわかってんのに。
何でこういう無神経なこと聞いてしまうんだろうな。


「……あ、れ」


俺が1人、頭を抱えていると、空乃は突然表情を曇らせた。


「大丈夫か?どうしたんだ……?」


心配になって聞く。

空乃は焦点の合わない目で、一点を見つめた。


「私は誰のお墓参りに行くの?お墓参り……誰が死んだの?誰がっ………あぁぁぁああぁぁあぁ!!」


頭を手で掻き毟りながら、空乃は金切り声で叫びだした。


「空乃!落ち着けって!!どうしたんだよ!?」


ベッドから降りて、俺は必死に空乃を落ち着かせようとする。

「あっ」

キン、という音につられて床を見ると、空乃のペンダントが地面に落ちた。


「いや、いやだ……いやあぁぁぁあ!」


ペンダントが開いて、中に入っている写真が目に留まった。

少女が2人、笑顔で映っている写真だった。
片方は空乃だとわかった。
もう片方は―……




はっとして、目が離せなくなった。




―嘘だろ。

空乃は、その写真を見て、何かを呟いた。


「―――……詩織、ちゃん」





写真の中に映っていたのは、仲良さげに笑顔でピースをしている、空乃と、




――あの頃の俺の心を唯一許させた、あの少女だった。

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